遺伝子研究からみた嗅覚の世界

第4回 知っているようで知らないフェロモンの話

 ひところ「フェロモン女優」などという言葉が流行った。ここでは「フェロモン」は「色気」とか「性的魅力」くらいの意味で使われている。
 しかし、フェロモンはれっきとした学術用語である。この言葉は、1959年に、ギリシャ語の「伝達する」(pherein)と「刺激する」(hormon)を合わせて作られた造語である1)。フェロモンは、「ある個体から体外に分泌され、同種の他個体が受け取って、特定の行動や生理的変化を引き起こすような物質」と定義される。

発見は日本でもおなじみのあの生物から

 フェロモンの実体を初めて明らかにしたのは、ドイツのアドルフ・ブーテナントだ。ブーテナントは、実験材料として、絹を採るために飼育されるカイコガを選んだ。養蚕が盛んだった日本から50万匹分ものメスのカイコガの性腺を入手し、1959年、わずか12ミリグラムのフェロモンを精製することに成功した。その物質は16個の炭素原子を含むアルコールで、カイコガの学名Bombyx moriにちなんで「ボンビコール」と名づけられた(図1)。

図1.カイコガの性フェロモン

図1.カイコガの性フェロモン

 カイコガは飛べないので、オスはフェロモンを嗅ぎつけると、身体をよじらせながらメスの方へと近寄っていく。この行動を利用して、抽出した物質がフェロモン活性をもつかどうかを検証することができる。ブーテナントが行った実験は、生体から分泌された物質を単離・精製し、分子構造を決定し、その分子を生物に与えて天然と同じ反応が得られることを確かめる、という一連のプロセスからなる。このようなプロセスを経て初めて、その物質はフェロモンとして認められる。
 今日では千種以上の昆虫のフェロモンが抽出・同定されている。フェロモンは特定の種のみに働くので、フェロモンとして利用される分子は種ごとに異なる。また、多くの種は、何種類かの分子のカクテルをフェロモンとして用い、そのブレンドの比率が種ごとに決まっている。そのため、フェロモンには無限ともいえる多様性がある。
 ボンビコールは異性を惹きつける性フェロモンだが、その他に、ゴキブリやバッタの集合フェロモン、アリの道標フェロモン、ミツバチの警報フェロモンなど、さまざまな働きをするフェロモンがある。

昆虫と似た分子構造を持つ哺乳類のフェロモン

哺乳類の行動は昆虫に比べてずっと複雑なので、ある反応がフェロモンによって引き起こされたことを証明するのは難しい。そのため、哺乳類のフェロモンは、昆虫に比べてわずかしか同定されていない。
 哺乳類フェロモンの例として、発情したメスのアジアゾウの尿から単離されたドデシニルアセテートを挙げよう(図2)2)。オスはこの匂いを嗅ぐと、「フレーメン」と呼ばれる特徴的な行動をとる。
 面白いことに、ドデシニルアセテートはボンビコールとよく似た分子構造をしている。実は、ドデシニルアセテートは、140種あまりの蛾の性フェロモンでもある。つまり、ゾウと蛾という、まったく異なる生物が同じ物質をフェロモンとして利用しているのだ。

図2.アジアゾウの性フェロモン

図2.アジアゾウの性フェロモン

ヒトのフェロモンは都市伝説か?

 私たちヒトにもフェロモンはあるのだろうか?
 ヒトフェロモンの存在を示す証拠として有名なのは、1971年に米国のマーサ・マクリントックによって報告された、「生理が同調する」という現象(「マクリントック効果」とよばれる)だろう。マクリントックは女子寮に住んでいて、寮の備品を揃える係だった。生理用品が一気になくなることがたびたびあったことから、寮生たちが同時期に生理になることに気づいた。
 135人の寮生にアンケートを取って調査した結果、同じ部屋に住んでいる者同士や仲の良い友達同士では月経周期が同調する傾向があることが示された3)。マクリントックがこの結果を発表したとき、彼女はまだ23歳の大学院生だった。

 マクリントックはさらに、女性の脇の下から採取されたサンプルを別の女性被験者の鼻の下に塗っておくと、サンプルが排卵期前(卵胞期)に採取された場合は被験者の月経周期が早まり、排卵期に採取された場合は逆に月経周期が遅れることを報告した。これらのことから、「女性の脇の下から月経周期に影響を与えるフェロモンが分泌されている」と考えられた4)
 しかし、統計的な手法の誤りや再現性が得られないことが指摘されており、マクリントックの論文に疑問を呈する研究者も多い。発表されてからすでに半世紀以上が経つがほとんど進展が見られないことからして、マクリントック効果は「都市伝説」と考えたほうがいいのかもしれない。
 これまでに、ヒトの脇の下から分泌されるいくつかの物質がヒトフェロモンの候補物質として挙げられてきた。しかし、現在までのところ、ブーテナントの実験のような厳密なプロセスを経てヒトフェロモンが同定された例は皆無である。残念ながら、シュッと一吹きすれば異性が寄ってくるような夢の物質は、人間界には存在しないようだ。

文献
1. Karlson P, Lüscher M, Nature, 183: 55–56 (1959).
2. Rasmussen LE et al., Nature, 379, 684 (1996).
3. McClintock MK, Nature, 229, 244–245 (1971).
4. Stern K, McClintock MK, Nature, 392, 177–179 (1998).

新村 芳人 先生

著者プロフィール

新村 芳人 先生
宮崎大学 農学部獣医学科 教授

東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程終了、博士(理学)。国立遺伝学研究所研究員、米ペンシルバニア州立大学研究員、東京医科歯科大学難治疾患研究所准教授、東京大学大学院農学生命科学研究科特任准教授を経て現職。ゲノム生物学、進化生物学を専門とし、嗅覚・フェロモン関連遺伝子を中心とした遺伝子ファミリーの分子進化についての研究に取り組んでいる。

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